麗しの三宅晴明と臨場感あふれる演出に震える『陰陽師 生成り姫』 観劇雑感


すごい時間経っちゃったけど、行って参っておりました、健くん主演『陰陽師 生成り姫』。
わたしはV6の他に古典文学も愛しているので、セリフの端々や振る舞い、それぞれの人物のバックにある価値観などなどから時代的な匂いが感じられたという意味でもとてもアツかったです。

まず滝沢歌舞伎2018以来2度目の新橋演舞場、花道あるの忘れてて入場直後「おおう!」ってなった。
開幕早々美しいコンテンポラリーダンスと音楽にうっとりしたかと思えば、次々と不穏な展開に…
徳子の不憫さがね、また涙を誘うのよ…

そして満を持しての健様登場、おわ~オーラが全然違う~!!!
見目麗しいのはもちろんのこと、存在感が圧倒的!

堕ちていく徳子、いかにも平安期の貴族階級の女性の落魄と悲嘆って感じで語弊ありまくりだが最高。
一幕終わりはちょーホラーで泣いちゃった(泣いてはない)
もう見た目からしてド迫力で、現実にあんなん迫って来んの見たらそれだけで自発的に臨終迎えるレベル。
ずっと綾子ウゼーwwwって感じだったけど、さすがにあれは震えたわ、、、

徳子をめぐる男たちのあれこれ。
「男どもみっともない情けない浅ましいやつらばっかりだな」と、あさましう思ふなどす。
男女に限らず愛(というか執着)は人を狂わすなあ〜とも思ったり。
とりあえず済時はやられてしまえと思わないでもなかったけど、でもそれが成就したって徳子の魂は救済されないのよ、きっと…😢

完全に鬼になってしまったわけではなく人間の部分も残っている徳子の狂乱は壮絶で、それでもなお徳子を愛して取り戻そうと必死な博雅がまた泣けるんじゃ~。

鬼徳子が博雅と合体して巨大化した時は道満なにしてくれてんねんと思ったけど、でも調伏したら徳子はそのまま身罷りなさってしまうわけで…
晴明には陰陽師として人のことに首突っ込むな的なこと言っときながら、なんだかんだあんたも人のこと気にかけてんじゃんかよというね。
出て来る人々、ほんとみんな人間臭いんだよな。

徳子+博雅の巨大鬼、人々蹂躙す。って感じ。
なんこれもう『進撃の巨人』じゃん?と思った(詳しくないからテキトーに言ってる)。
これほんとすっごかったな~、もうねほんとに生きてたもん、あの大鬼。
そしてわたしの好きな日本語「おめき叫ぶ」にぴったりな情景であったので勝手に変なところで滾ってた。

そして晴明から博雅への愛、博雅から徳子への愛と音楽による救済。
徳子は命こそ落としてしまったけど、恨みと絶望に呑まれてではなくて、ほんの一時でも愛と安らぎを得られての最期でよかったと安堵した。

印象的だったのは、「他に術がなくなった時、人はなるべくして鬼になる」(だっけ?)のセリフ。
非道な仕打ちと残酷な運命に耐えかねて、自分が死ぬことも許されない、それなら身を滅ぼしてでも復讐やむなし…となってしまった徳子。
徳子に限らず世の人みんなそうなんだと思う。
わかるんだけど、そうなる他なかった徳子が本当に悲しい。

なんかもう健くんの佇まいが終始荘厳すぎて、こんなこと言うと不謹慎レベルなんだけど、カーテンコールだからって投げちゅーとかしないんだなと思った(しないだろ)

あとね~蜜虫ちゃんめんこい、飼いたい(こら)
そのうちHPとかポスタービジュアルの姫姿で出んのかと思ってたら最初から最後まで虫姿だったけど(笑)
超チャーミング。
どうでもよすぎる余談だけど岡本玲ちゃんと同世代なもんで、中学生くらいの頃雑誌でよく拝見してたから余計なんか感慨深いものがあったりした。

最後になによりも強調したいのがコンテンポラリーダンスを駆使した演出の素晴らしさ。
精霊の舞や激しい川の流れ、鬼火というか業火のようなものと鬼のオーラ、パワーまでも表現してしまうコンテンポラリーの可能性とか真髄みたいなものに触れる時間でもあったなと思った。
舞台装置でも表現出来たものはあるだろうけど、すべてが生身の人間だからこその生命感や迫力があって、多分その時代の日本人が自然というものとか人智を超えたものとかに感じていたであろうその美しさや恐ろしさがリアルだった。

とにかくまだまだ新しい芸術であるコンテンポラリーと遠く遠く過ぎ去った時代の和の物語との融合がお見事で、エンタメとはかくあるべしと思った作品で素晴らしかったです。